水口施設長コラム No.34 昭和の歌謡曲

 「歌は世につれ、世は歌につれ」と言われているように、歌は時代を色濃く反映しており、当時の状況に思いを馳せながら聞くのも楽しいものである。聞き慣れた歌は当時を回想させるのか、入居者さんは楽しそうにされている。今回は、昭和歌謡を中心にして、時代背景について考えてみたい。
 最初に、昭和歌謡を代表する歌手「美空ひばり」について触れたい。天才少女と呼ばれたひばりは9歳でデビューし、歌声には人々を魅了するオーラがあった。1950年代に発表された「リンゴ追分」は「つがる娘は泣いたとさ、つらい別れを泣いたとさ」と歌詞にあるように当時の生活の厳しさが反映されている。その後、「ひばりのマンボ」、「ひばりのちゃちゃ」等、曲を自由自在に操る歌唱力と共にツボを心得ており、観客との一体感を醸成し、作品を楽しんでいるように見える。
 この時代には第1回レコード大賞受賞がスタートし、NHK紅白歌合戦等によって歌謡曲は大衆文化として社会的に受け入れられるようになった。
 1960年代には、坂本九の「しあわせなら手をたたこう」や梓みちよの「こんにちはあかちゃん」から分かるように人々の生活は豊かになってきた。1970年代には、「もしも私が家を建てたなら小さな家を建てたでしょう」で始まり、「それが私の夢だったのよ いとしいあなたは いまどこに」で終わる「あなた」という曲を小坂明子は歌った。この曲には、優しさに包まれた未来の幸せな結婚生活を夢見た少女の思いが素直に表現されているようだ。また、「地震・雷・火事・親父」が死語になったことを暗示しているようでもあり大変興味深い。
1989年、「川の流れのように」で新たな境地を開拓し、歌手人生の幕を閉じた。ひばりは最後まで時代の流れを感じ、それを表現していたようだ。
 昭和の歌は大衆に伝えたいメッセージが込められているが、平成に入ると「歌詞」だけで人の心をとらえる曲が減ったようだ。それは「どんな人にも通じる普遍的な言葉」が失われてしまっただけのことかもしれない。
 TMGグループの創始者である中村隆俊氏(現、TMGグループ会長)は北海道大学医学部を卒業後、3年間に渡ってひばりの家庭教師をされました。「先生、たくさんの人を助けてちょうだい」と言っていたことから、ひばりは先生のことを尊敬していたことが伺える。このご縁によって当時の思い出の品が「中村俊孝記念館<美空ひばり常設展示>」に展示されている(戸田市中央総合検診センター)。
 施設では利用者の皆さんに昭和の音楽を楽しんで頂くために音楽教室などを実施しています。今後とも利用者さんに音楽の楽しみを提供して参ります。